先日、私のアシスタント業務の一環でCEFR B1の内容を考えるお手伝いをする事になりました。その際に、ミミ先生に「ChatGPTって知ってます?あれ、めちゃくちゃ優秀なんですよ!」と教えてもらい、リンクまで送っていただいたので、実際に使ってみるとなんと言うことでしょう、私の世界が一変しました。これを知らないで生きてきた私、なんだったんでしょう。と思うくらい「優秀」だけでは表せない程、先手を出してはいけない代物に手を出してしまった感覚でした。私自身AIと言われるとすごく漠然としていて、目に見えないから少し恐怖感もあったりしました。後、AIと言えばSiriくらいしか知らなかったのですが、これはCHATができるという事が肝なんですよね。前に話した事などを、“あれ”や“そのこと”などを打ち込んでも、何を指しているのかきちんと理解しているんです。更に、ここ数年翻訳アプリの機能や翻訳サイトのサービスが一段とレベルアップしています。5、6年前までは無料で使える翻訳ソフトと言えば、Google Translateが主流で皆さん、使った事があるかと思いますが、当時はまあひどいもんでした(笑)ちゃんとした日本語に訳されていなくて、ノンジャパニーズが翻訳したような文章になっており、逆に分かりづらくなっていました。翻訳された文章をもう一回自分で翻訳するという「何をしてんだ、私は。」とむなしくなる瞬間です(笑)としかし、最近では無料の翻訳サイト(DeepL Translator)などは本当に違和感なく上手に翻訳してくれます。これもミミ先生に教えてもらい、使用するとChatGPT並みに感動しました。ケニーさんが書いたブログを日本語に翻訳した際に使用し、仕事が一瞬で終わりました(笑)テクノロジーも変化するにつれて、私は教師として英語学習において何が必要なのかを考えるようになりました。
新しい英語教育の形
一昔前なら、なぜ、英語を勉強するのか?と質問されると、英語を学べば海外旅行行った時に困らないぞ。外国人に道を聞かれた時に英語で答えられるぞ。と答えられていましたが、これからはそんな答えは通用しなくなるのだなと心のどこかで思っています。生徒達にスマホを見せられながら、「俺ら、これあるんで。正確に翻訳してくれるんで」と近い未来、言われそうです。なので、今の時代、英語教師にとってこの質問は、ますます答えるのが難しい問いになります。つまり、英語教師ができることは、「翻訳アプリではできないこと」を「外国語を学ぶ新しい意義」を学習者に示す必要があるのではないかと考えます。 具体的に挙げると、外国語教育が提供すべき教育的価値として異文化間のコミュニケーション能力があると感がられます。なぜなら、異文化間のコミュニケーションの能力とは「生身の人間と人間の関わり合い」に関係する能力だからです。翻訳ソフトでできることは、ある言語の表現(英語)から別の言語の表現(日本語)に変換する事はできますが、「人間同士の交流や相互理解」のためには、ほぼ役に立ちません。例として、自分とイタリア人がお互い翻訳機を使って挨拶することは可能です。ですが、そこから先の、深いレベルの「交流」に進むと、文化、歴史、思想といった「言語以外の多様な要素」の相互理解が必要になります。それ故、「多様で複雑な要素」がかかわる「異文化間コミュニケーション能力の教育」は、今後の外国語教育の重要な鍵になってくるに違いありません。
動機付け研究が次世代の英語教育の方向性を決めるヒントになる
外国語教育の世界では、1970年代にGardner and Lambert(1972)がMotivationの研究を行い、総合的動機づけ(integrative motivation)道具的動機づけ(instrumental motivation)という2つの動機づけを提案した事を皮切りに、約半世紀にわたって、沢山の「動機づけ」の研究が行われてきました。これらの研究結果は、AI時代の英語教育をどのように進めるかを導いてくれると思います。 例えば、「TOEICで満点を取りたい」と思って勉強している人はテストで満点を取ることがゴールなので、英語は目標を達成するための道具でしかありません。このような動機づけが道具的動機づけ(instrumental motivation)になります。このような場合は、AIがとても役に立ちます。 一方で総合的動機づけ(integrative motivation)がAIと同じように役に立つのかと言えば、そうではないです。Eigopopの先生達も英語を学びたいと思ったきっかけは、現地の人とコミュニケーションを取りたい、伝わらなかったのが悔しかったなどがあります。私はいろんな人種の人と、一緒に笑いたかったという気持ちがありました。もし先生達がAIを頼ったとして出来たことは、英語の知識を増やす事だけであって、感情に関わる要素については、AIは残念ながら力にはなってくれないです。では、その総合的動機づけ(integrative motivation)を促進するには、AIではなく感情を持った生身の人間が学習者の感情を揺さぶらないといけないんです。 現在の動機づけ研究の第一人者であるドルニュイは、最近、第二言語理想自己(第二言語を使ってどんな人間になりたいのか)が第二言語能力の発達に強く関与しているといっています。Eigopopの教材は全てチームの人間達がクリエイティブな発想を駆使しながら、子供達の総合的動機づけ(integrative motivation)を刺激することができるように最高の教材を提供しています。
論理的思考と英語教育の関係【メタ言語能力と福言語主義】
外国語を学ぶ事の大きな目的の一つとして論理的思考があると言われており、メタ言語能力を発達させるためには外国語は大いに役立つとも思っています。メタ言語能力とは、言語を意識して観察する能力です。
日本語で例を挙げると、「は」と「が」はどちらも主語を表すけど、少し意味が違いますよね?「食べる」 「遊ぶ」などの動詞は、だいたい文末に来るなあ。「これ」 「それ」 「あれ」の順番に遠くなっていくけど、区切れ目はどこなんだろう。などの、我々日本人は普段、意識せずに自然に使っているので、こんなこと考えませんが、イメージとして日本語をお勉強している外国人が疑問に思うような事です。
メタ言語能力があると、読む、書く、聞く、話す時により正確にその言語を使えるようになります。例として、「が」と「は」の使い分けについて意識できているかどうかで、適切な表現ができるか否かが変わる事があります。
「リサ先生、教えるのは上手だよ」と言うと、日本人の皆さんなら瞬時に「教えるのは上手だけど、怖い先生なんかな?他の良いポイントないんだ。」って思いますよね。意味ありげだな。裏があるのねと理解しますよね。
けど、「リサ先生、教えるのが上手だよ」というとストレートですよね。
このように、「は」と「が」の使い分けが言葉の意味を変えるなあ、と気づいていることがメタ言語能力です。それにより、伝えたいことを性格に伝えることができます。そして、これは外国語を学ぶときにも役にたちます。なぜなら、学びたい言語を母語と比較することで、その言語の文法を理解しやすくなるからです。
例えば、「~の」という意味の「of」について学ぶことを考えてみましょう。「the end of this century」を日本語訳すると、「今世紀の終わり」となりますよね。ここで英語を日本語と比較してみると、英語では「the end」つまり「終わり」が先に来るのに対して、日本語では「今世紀」が先にきます。これに気付くことができると、『of』が出てきたら、日本語とは逆の順番で書かれていることに注意して読まなければならないんだな」と理解できます。これを意識できない人だと、「the end of this century」と出てきた時に「終わりの世紀?」と誤訳してしまうのです。このように、学びたい言語と母語を観察して、意識的に比較する能力は、その言語の習得においても非常に重要なのです。
もちろん、メタ言語能力も大事なのですが主に欧州で広がっている「3つの言語」を学ぶ事を推奨する「三言語政策(trilingual policy)」があります。この考え方は、3つ以上の言語を学ぶことによって、複数の言語を比較対照することができるようになり、結果として、言語の価値を正しく認識できるようになる、という考え方に基づいています。日本のような状況で「日本語 vs 英語」といった対立的な比較を強調してしまうと、「外国語=英語」といった「誤った認識」を学習者がもってしまう可能性が出てくるので注意すべきです。前述の三言語教育政策が、(2つではなく)3つ以上の言語を教えることの意義を重視しているのも、そうした「誤解」を学習者にもたせないようにするためです。個人的に、この考え方はとても魅力的です。母語を含めたあらゆる言語を平等にとらえ、できる限り多くの言語の教育を受けることの価値を尊重するという考えはとても素敵です。固定概念を捨てて、柔軟に対応する事が大事ですね。
論理的思考と外国語学習
話が脱線してしまったのですが、論理的思考と外国語学習の関係性の話に戻りましょう。地球上のあらゆる言語の価値を平等に認めた上で、複数の言語を知り、複数の言語を学び、複数の言語を使えるようになることで、人間の「論理的思考能力」が鍛えらます。ただし、外国語学習によって論理的思考を高める場合には、「母語+英語」といった「一つの外国語」だけを学習するだけでなく、できれば2つ以上の外国語を学習することが望ましいという事です。沢山の言語を学ぶ事によって、複数の言語を扱うことが出来る人たちの能力の間に「差がある人」もいるし「差がない人」も存在します。私の場合は、本当に時と場合によります。英人の友達と1日過ごすと、本当に日本語を聞くのも嫌になります。完全に脳が英語脳になるので、日本語を聞いたり話したりすると脳が拒否するんです(笑)その場合は、英語が優位になっていますが、反対に母国語で話す時間が長いと、英語がスムーズに出ないこともあります。複言語主義は、そうした(いわば)アンバランスな言語能力を肯定的にとらえていて、必要に応じて、能力に応じて、複言語話者が、自由に複数の言語を使うことを推奨しており、2つの言語のバランスについては多様なパターンがあっていいし、自然なことです。非英語学習者からすれば、バイリンガルの人って2つの言語を完璧に使い分けてるんでしょと思いがちですが、それが完璧にできるのは通訳のお仕事をしている方だけです。そんな器用で完璧な人間はそうそういませんから、期待はそこまでしないでください(笑)
これからの「AI時代の英語教育」を考える上で大切な事
これからの教師には「テクノロジーの発達」を的確に理解し、教育のために有効に使えるようになる必要がある。「テクノロジー」は、教育的目的を達成するための「道具」にすぎない。「新しいテクノロジーをどのように使う事」でどんな「目的」を果たすのかが重要。
SNSの一つであるFacebookが最近の若者の認識では、既に「古い」テクノロジーです。ガラケーのような存在です(笑)今の若い子達はTwitter, Instagramなどを使い、LINEも最近では使わずDMを使って連絡するそうです。私はDMを確認する癖がなく、友達からのメッセージに2週間気づかなかった事があります(笑)「より使いやすいテクノロジー」が現れると、若者はかなりの速さで「新しいテクノロジーに乗り換える」ということです。AIやICTに関係するテクノロジーの進歩は、これからは、間違いなく、さらに早い速度で変化し続けることでしょう。そうだとすると、こうした「テクノロジーの変化の速度」に、「英語教師はどのようにして追いついていくか?」という点については、もっと真剣に検討する必要があるように思います。最も基本的な方法は、「教師一人一人が努力する」ということになるでしょうが、個人的努力だけでは、これからのテクノロジーの発達の速度に追いつけないように思います。だからと言って、たとえば教育委員会のおじさん達が提供している講習会や説明会も、そこまで大きな助けにはならないでしょう。
これからの時代の教師にとって一番有効な方法は、おそらくネットワーク上の情報共有です。説明会で得られる知識よりも数百倍意義があると思います。教師本人が、新しい時代に生きるための情報収集能力をもつ必要があるということになるのだと思います。二つ目としては新しいテクノロジーを使ったとしても、それを使う目的がなんであるかが明確になっていなければ、そのテクノロジーを使用する意味がないです。宝の持ち腐れです。20年前にはなかった、私たちの人生を豊かにするテクノロジーと上手に向き合って、子供達の未来を変えていきましょう。